韓国人の反応「1910年と30年のソウルの変化がこれ」ノスタルジー
youtubeから「1910年と30年のソウルの変化がこれ」という記事をご紹介します。
引用・翻訳元:https://www.youtube.com/watch?v=Bin4zqugnDg
とある韓国人の反応
参考・仁丹:
創業者・森下博は、1869年(明治2年)11月3日、広島県沼隈郡鞆町(ぬまくまぐんともちょう)(現・福山市)で、佐野右衛門・佐和子の長男として生まれた。幼名は茂三。
博の祖父は鞆の「撫屋(なでや)」号森下家12代茂右衛門の3男であったが、鞆の由緒ある沼名前(ぬなくま)神社(祇園神社)の宮司・大宮家に婿養子に入った。そして大宮家の長女・京子との間に生まれたのが、博の父である。博が生まれた頃は、父も祖父とともに沼名前神社の宮司の職にあった。
博が物心つく頃、祖父の出身である森下家に世継ぎが絶えたことから、祖父は博一家を連れて森下家に戻り、博の父・佐野右衛門に森下家14代を継がせた。
森下家に戻った佐野右衛門は、神職から一転して煙草の製造販売の道に入ったが、いわゆる士族の商法でうまくはいかなかった。そのため、長男には学問よりも実地の仕事に慣れさせた方が将来のためになると判断して、博が9歳の年に学校をやめさせ、備後府中在宮内村の煙草商「角新」に見習奉公に出した。「角新」の夫婦は、自分の子供のように博を可愛がり、博はここで12歳まで、煙草の栽培から製造はもちろん田植え、草とり、牛をひくことまで一通り学んだのである。
見習奉公の年季があけた博は、鞆町出身で備後府中の小学校に赴任していた分部坦という先生に引き取られて再び勉学の道に戻り、分部先生から福沢諭吉の「学問のすゝめ」や「世界国尽」を学んだのだった。しかし、翌年、父の病気のために鞆の両親の許に呼び戻され、再び学業を諦めたのである。
1882年(明治15年)5月8日、父・佐野右衛門が亡くなると、博は家督を相続して森下家15代佐野右衛門を襲名。しかし、福沢諭吉の著作で知った新しい時代や未知の世界への夢は忘れがたく、3回忌をすませた15歳の年に単身大阪へとのぼり、大阪で医者を開業していた叔父・沢田吾一の許に身を寄せた。ここで博は、沢田の知人・桑田墨荘の紹介によって心斎橋の舶来小間物問屋「三木元洋品店」に丁稚奉公に出る。
普通丁稚の年季は15年と言われるが、博はわずか9年で年季が開け、別家が許された。
そして、1892年(明治25年)1月15日、丸尾花子と結婚。独立開業への準備を始めたのだった。
↑ 10年代
↑ 30年代
今日の世代は本当に幸運です。80年代初頭にソウルにいたとき、いくつかの地域では過去のこのような痕跡を感じたよ 経済は80年代半ばのソウルオリンピックの直後から活況を呈してたよね。 国が貧しい国から世界の富める国のうちの一つになる過程を見たよね。努力は報われた。
韓国人の反応
とある韓国人の反応
・涙が出るね
とある韓国人の反応
1950年に北が侵略したときの赤ちゃんは50代になるでしょう。祖父母の世代を赤ちゃんとして見るのはとても奇妙だな。
とある韓国人の反応
日本統治の10年前です。1905年に日露戦争があってその結果朝鮮が日本の保護領になります。そして5年後である1910年に日朝合邦です
とある韓国人の反応
>>の映像は日本統治時代ですね。初期ですかね。仁丹は日本の会社だよ。
とある韓国人の反応
>>統治まえの新聞の朝鮮通信欄をみると、日本人が朝鮮半島でコレラの衛生指導に日本人が着任したり色々韓廷と関わって居るようだから、日本の仁丹の看板もあるんですね。
とある韓国人の反応
・1899年からはアメリカ、イギリス、日本、清の軍人が韓半島にすでに駐屯していました
とある韓国人の反応
このビデオは素晴らしいね。このような歴史を垣間見れるのは面白い。
とある韓国人の反応
この頃は思ったよりずっと肌の色が濃く見えるね。
とある韓国人の反応
多分それは映像の問題じゃないのかな?
とある韓国人の反応
人間は元々熱帯での動物で、私たちは裸で生まれる。熱帯の条件で裸で生き残ることができるのは、茶色の肌の人間だけだ。明るい肌は移住などから来ているんじゃないか…
とある韓国人の反応
彼らは一日中外にいたからでしょ! 今では肌を覆い隠し、日焼け止めと美白クリームを使うし。
とある韓国人の反応
アマチュアの映像なのに驚くほど良い品質だね。 これだけ古いの物はもっと劣化していたと思っていたよ。
とある韓国人の反応
日本の統治下の韓国ではないね。 インドシナ半島のポリネシア、または日本が占領している中国南部かな
とある韓国人の反応
日本の統治下の韓国ではないね。 インドシナ半島のポリネシア、または日本が占領している中国南部かな